「優しさの還る場所」



1

「もういい加減にして!」 突き飛ばされた拍子に、ヘルパーの夏美は足元の床に尻もちをついた。杖が飛んできた。床に転がった杖は、無機質な音を立てた。目の前には怒りに満ちた顔でこちらを睨む認知症の女性、加奈子がいた。かつては温厚で優しかったという話だが、今ではその面影はどこにもない。

「出ていけ!もうお前なんて見たくない!」
加奈子の叫び声が部屋に響き渡る。夏美はゆっくりと立ち上がり、深呼吸をしながら表情を整えた。心が折れそうになるが、彼女の仕事はこの高齢者をケアすること。自分も夫を失って以来、仕事に打ち込むことで心を保っている。それが今の自分の唯一の支えでもあった。

しかし、加奈子のケアはいつも以上に困難だった。認知症が進行し、怒りや不安が激しくなり、些細なことで彼女は苛立ち、暴言を吐き、物を投げつける。夏美はいつも傷ついていた。だが、逃げるわけにはいかない。夫を亡くした寂しさや苦しみが、自分の中で疼くたびに、彼女は一歩一歩前に進んできたのだ。

2

ある日、加奈子の部屋を整理していると、一枚の古びた写真が目に入った。そこには若い女性が笑顔で写っている。写真の裏には「愛しい娘へ」というメッセージが残されていた。夏美は胸が締め付けられるような感覚を覚えた。

「加奈子さん、この写真の女性は…?」
加奈子は少しの間、何も答えなかった。やがて、彼女は涙を浮かべながら言った。
「私の娘よ…でも、もういないの。あの子が死んでから、私は何もかもがどうでもよくなった。誰も私を理解してくれない、もう誰も…」

夏美は驚いた。いつも怒りに満ちている加奈子が、こんなにも深い悲しみを抱えていたことを。彼女の暴言や攻撃的な態度は、愛する人を失った痛みと孤独から生じていたのだ。自分と同じだった。夏美は胸の中で何かが溶けていくような感覚を覚えた。

「加奈子さん…私も夫を亡くしているんです。」
加奈子は目を丸くした。「あなたも、そんな辛い思いをしているの?」
「はい。でも、彼を失っても、私にはまだケアする人たちがいます。大切な人を失っても、生きている私たちは、誰かを支えることができるんです。」
夏美の言葉に、加奈子は少しの間黙り込んだ。涙が頬を伝い落ちる。

3

それ以来、加奈子の態度が少しずつ変わり始めた。最初は小さな変化だった。夏美に対して暴言を吐くことが減り、物を投げつけることもなくなった。そして、ある日、加奈子はぽつりと言った。
「あなた、本当に優しいのね。私は自分の痛みしか見えてなかったけど、あなたはそれでも私を見捨てなかった。」

夏美は笑顔を浮かべた。「加奈子さんの心の中には、まだたくさんの愛がありますよ。それを忘れないでください。」

加奈子は、少しだけ微笑んだ。「ありがとう…私にはもう、こんなふうに優しくされる資格なんてないと思っていたけど…あなたがいてくれて、少しだけ気持ちが楽になったわ。」

夏美はその言葉に胸が熱くなった。自分の悲しみを抱えながらも、誰かを支えることで心が癒されていくのを感じた。加奈子もまた、夏美の優しさに触れることで、少しずつ自分を取り戻しているようだった。

4

季節が変わり、加奈子の表情は以前とはまるで別人のように穏やかになっていた。もちろん、認知症の進行は止められない。時折、また怒りが顔を覗かせることもあった。しかし、その度に、夏美は忍耐強く加奈子に寄り添った。彼女にとって、加奈子はもはや単なる患者ではなかった。同じ悲しみを抱えた、一人の人間として共感し、支え合う存在だった。

そしてある日、加奈子は夏美の手を取り、静かに言った。「ありがとう、本当にありがとう。あなたがいてくれたから、私はまた人を信じることができる。」

夏美は静かにうなずき、加奈子の手をしっかりと握り返した。その瞬間、二人の間には言葉では表現できない絆が生まれていた。悲しみを分かち合い、優しさで包み込むことで、人はまた前を向いて生きていけるのだと、夏美は強く感じていた。

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それから、二人は共に歩み続けた。それぞれの悲しみを抱えながらも、互いに支え合い、心の温もりを取り戻していく日々。

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